ゼカリヤ8:1−8/Ⅰテサロニケ2:1−8/ルカ2:41−52/詩編89:2−15
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)
ルカ福音書はイエスの誕生の物語だけでなく、嬰児の頃と幼少期の消息を伝える物語も知っていました。嬰児の頃イエスはエルサレムに連れて行かれます。その物語には短い報告が付いています。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」(2:22)、そして「主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。」(同23)というのです。
レビ記12章に、出産についての規定が書かれています。主なことだけ拾ってみると「八日目にはその子の包皮に割礼を施す」(12:3)「産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。」(12:6)です。そしてイエスの両親はこのレビ記の記述に忠実に、生後8日目にイエスに割礼を施し、マリアの40日間の清めの期間を経てエルサレムにのぼり、シメオンとアンナという二人の老人に出会うのでした。
そして今日お読みした箇所では12歳のイエスが両親に連れられて過越の祭で初めてエルサレムに巡礼したという物語が書かれています。ユダヤで男の子が12歳になったならば「バーミツバ」という儀式を経て「律法の子」つまり律法を守る成人男性の一人に加えられることになります。おそらくイエスの場合もバーミツバを経ていたのでしょう。律法に記されたとおり、12歳になった年の過越祭で彼は両親に連れられてエルサレム神殿を巡礼したということなのです。
ルカは自分の福音書の中で、イエスが律法に忠実な人であったことを強調しようとしているようなのです。イエスはユダヤ教を成就する者、決してアウトサイダーではなかった。それは生まれたときからそうだったのだと強調しているのではないでしょうか。8日目に割礼を受けることも、40日の清めの期間が終わったらエルサレムに贖いの捧げものを捧げるために赴くことも、12歳で初めて過越祭の巡礼をすることも、全て律法に定められたとおりだったのだ、と。
ところがその巡礼の旅で事件が発生したのです。定められたとおり祭の期間を過ごし、家に帰ろうとしたその時、イエスは一人神殿に残っておられたというのです。両親はそれに気づかず1日分の旅路を辿り、いないことに気づいて引き返しますが見つかりません。あちこち訪ね歩いて漸く3日目に神殿にいるイエスを発見します。だから当然両親はイエスをたしなめるわけです。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2:48)。
迷子の子どもを捜す。幼稚園で働いているとあってはならないことですが、時々そんな場面に遭遇します。さがす方は必死ですよね。さがされる方ももちろん必死だとは思いますが。だから見つかったときは安堵しますが、ついたしなめる言葉が口から出るものです。ページェントの語り手が言うように「マリアさんは心の優しい娘さんでした」とばかりは言っていられない。母親たる者、毅然とした態度をとることだってあるでしょう。マリアが怒るこの場面はそういう意味でも希少な箇所です。
ところがイエスはそれに対して奇妙な答え方をするのです。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(同49)。そして「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(同50)のでした。
わたしたちは神殿に少年がいるということだけで、それがサムエルのことを指しているのだとわかります。サムエルはハンナの祈りによって神さまに与えられた少年でしたから、ハンナは彼を神さまにお捧げしたのです。12歳のイエスがエルサレム巡礼をしたのが過越祭であったこと、さらに迷子のイエスが発見されるまで3日間を要したということが、過越祭に繰り広げられる十字架から復活までの物語を想起させ、復活の3日目に通ずるものであることもわかります。もちろんルカはわたしたちにそれを覚らせようとしているのでしょう。となれば、「自分の父の家にいるのは当たり前だ」ということもまた、イエスの復活と昇天をわたしたちに予め覚らせるための伏線なのでしょう。
つまり12歳のイエスがわたしたちの目の前に繰り広げるこの小さな挿話は、実は挿話ではなくイエスのストーリーの縮図だったのです。3度目にエルサレムを訪問するイエスは9章51節から書かれています。それは「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」という言葉で始まるのです。その決意は12歳で、いやひょっとしたら40日目で既にイエスに運命付けられていたこと──しかし母にも父にも、そしてわたしたちにもそれは理解できないことであるのだとルカは告げているのでしょう。
新しい年の初め、わたしたちもイエスと共に、私のいのちを神さまに捧げるその思いを新たにさせられましょう。わたしたちはわたしたち一人ひとりに神さまから与えられている固有のつとめに、この年も、いやこの年こそ、勤しむものでありたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。新しい主の年2022年が与えられました。今もまだ世界は混乱の中にありますが、しかしこの混乱のただ中に、あなたの御手を見出すことができる者とならせてください。あなたから与えられた新しい年のはじめに、わたし自身をあなたに捧げるその思いを新たにしてください。それぞれが与えられた分を尽くして、あなたに従って行く者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。